音楽評

J-POP批判記事へのコメントから見えてきた、残念すぎる傾向

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以前、J-POPの批判記事を書きました。

その時の気持ちは今でも変わりませんし、なんなら私はティーンエイジャーの頃からJ-POPが嫌いです。

それは一つの通過儀礼かもしれませんが、私はそれを通り過ぎず、ずっとその渦中に居ます。

まず、このブログのPVは大したことありません。実践的なDIY記事は全く伸びません。しかし皮肉なことに、「J-POP批判」というどうでも良い記事に限って被リンクが多く、コメントも付くのです。

つまり、完全に特定層に刺さってしまったのですね。

ちなみに私は、記事が伸びることを全く嬉しく思っていません。想定していない層には届いて欲しくないからです。

その記事を肯定的に捉えた人々は、「言いたくても言えなかったことを代弁してくれた」「モヤモヤしていたけど、言語化してくれてスッキリした」と、共感の声を寄せてくれました。

一方で怒り出してしまった人は、「自分の好きな音楽や、自分自身を批判された気がする」と勝手に被弾して、勝手にキレてくる――そんな反応ばかりでした。

私は冒頭で、このように明言しています。

※J-POPが好きな人は読まずにお帰り下さい。ツイートもコメントもしなくて結構です。

勘違いして欲しくないのですが、あなたがJ-POP好きであるのならばそれは否定しません。あなたはJ-POPが好き、私はJ-POPが嫌いというだけです。この記事は私がJ-POPが嫌いであり、クソであると考える理由を主観と客観で説明するものです。

これだけ書いても、そういう人は三行以上の文章を読めません。それどころか、一行だって怪しいでしょう。

そうやって怒り出す人たちの論調は、見事に“お察し”というべきものでした。

つまり「どういう人が聞く音楽なのか」という傾向が、皮肉にも浮き彫りになってしまったのです。

私の好きな音楽について

私の好きな音楽。それは、作り手の心の奥底から湧き上がってくるような情熱、真実、それが音として出力され、聴き手の人生に寄り添うようなものです。

もちろん音楽は多様であるべきですし、もっともらしい有象無象のポップスも存在していいとは思います。

ただ、ちょっと想像してみて欲しいのです。

5年後も、今流行っているポップスは聴かれているでしょうか?

5年前に流行ったポップスは、もうタイトルも思い出せないのではないでしょうか?

そういうインスタントに消費されて終わるような音楽を、私は好まないというだけの話です。

かつてノエル・ギャラガーが、ワン・ダイレクションのゼイン脱退劇についてこう語ったことがあります。

なんでヤツが辞めようと思ったのか理解できないね。どのみちワン・ダイレクションには、あと5年ぐらいしか時間が残されていないんだ

――ノエル・ギャラガー

良い音楽というのは何十年も残りますから、本質を見ている人には、それがきちんと見えているということです。

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