【映画批評】『HANA-BI』を観て

『HANA-BI』トレイラーより

破壊と再生。

『HANA-BI』は、その二つの力が交錯する映画だ。

半身不随となり、自殺未遂まで追い詰められた堀部(大杉漣)は、絵を描くことで生への糸口を掴もうとする。一方、西(北野武)は明確に死へと突き進む。二人は共に図画工作に向かうが、その意味はまるで違う。片や再生への試みとして、片や破滅のための身支度として。

西が堀部へと贈った画材一式にベレー帽まで含まれているのは、北野武らしいユーモアだ。堀部はとりあえず被ってみるが、どうにも似合わず、すぐに脱いでしまう。そのぎこちなさが、痛々しくも可笑しい。

海辺に佇む堀部は、”普通の家族”を描こうとする。穏やかで、ささやかな幸福。その光景こそ、かつて自分が居るはずだった場所だ。しかし描き上げた絵は拙く、堀部はその紙を途中のまま投げ捨ててしまう。たどり着きたかった場所に、自分はもう戻れない。そう悟ったかのように。

作中において、花は生や幸福の象徴として扱われる。堀部が涙したのは、幸せそうな家族を見た時でも、絵がうまく描けなかった時でもない。花を見た瞬間だった。

もう他者を守れない自分。職も、家族も、役割も失った自分。二度と元には戻らない人生。自分にはもう、誰かを幸せにする力がない。その世界に、自分だけ戻れない。

その現実を、花という静かな象徴を前にして、不意に理解してしまった。

あの涙は、単なる悲しみではない。

喪失の全体像を唐突に突きつけられた人間が流す、どうしようもない涙だった。

それでも堀部は、再生のために筆を握る。

一方の西は、破滅へ向かうための工作を淡々と進めていく。

偽のパトカー、偽の制服、偽の拳銃。

その目的はただ一つ、「死のための身支度」だ。

同じ”図画工作”であっても、堀部と西では向いている方角がまるで違うのである。

誰しも、愛する人のために死ねると言うかもしれない。

しかし本当に痛くて残酷なのは、愛する人を自らの手で終わらせる事ではないだろうか。

終幕に向け、死へのピントが冴えてゆく。

手には拳銃、弾丸は二発。

物語は当然の結末へと突き進む。

あまりに美しい音楽。

あまりに美しい空と海。

その静けさを裂くようにして、乾いた二発の銃声がすべてを終わらせた。

私は映画を観た夜から、数日続けて悪夢を見た。今もまだ、気持ちは沈んでいる。

それでも目を離せないのは、この作品が死を描きながら、同時に生が持つ僅かな輝きさえも魅せてしまうからだ。

拙く光る、堀部の絵のように。

私が不服なのは、この作品が金獅子賞を受賞したことだ。もちろん受賞理由は分かる。

だが、同じ北野映画である『ソナチネ』がかすりもしなかったことが、どうにも嘘くさく思えてしまう。もし映画が絶対評価で測れるものなら、『ソナチネ』が無視されたのはおかしい。だが映画祭とは、きっとそういう場所なのだろう。

今日も私は、悪夢を見る。

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