映画音楽評

川井憲次の彩る、アニメ音楽の世界。イノセンスの音楽は神域だった。

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観に行ったのは中3の頃。当時は学校の配布物に映画の割引券が混じっていた。

イノセンス それは、いのち。

糸井重里のキャッチコピーと割引券にまんまと乗せられた私は、友人と共に映画館へ行ったのだった。

簡単なあらすじ。メイドタイプのガイノイド・ハダリが持ち主を惨殺した後に自壊するという事件が起こる。ハダリは自壊する直前、「助けて」と呟いた。捜査を進めていくうち、事件を起こしたハダリは生殖機能が搭載されたセクサロイドである事が分かった。ハダリは極秘で、実際の少女の精神がコピーされた違法な品だったのだ。一連の事件は、ゴーストのコピー元である少女からのSOSだったのである。

というものだが、内容は全然面白くなかった。というかあまりにも難解で、作品単体で理解させるつもりがないのだ。ニヒルな台詞回しは、その殆どに引用符が付く。中学生が予備知識無しで楽しめるような、分かりやすいエンタメ映画では無かったのである。どうやら押井守作品とはそういうものらしい。ちなみに海外でのサブタイトルはGHOST IN THE SHELL 2だ。

ちなみに私はイノセンスを観てからGHOST IN THE SHELLを観た。滅茶苦茶である。ただ前後関係はどうあれ、両方観ると面白さが何倍にも膨らむのは言うまでもない。

映画館を出た私と友人の顔は呆けていた。

美術の先生も観に行ったらしく、面白くは無いけど映像が凄いという評価だった。映像処理が重すぎてPower Mac G5を大量導入して乗り切ったというのはあまりにも有名な話。

だが私の心に突き刺さったのは話でも映像でもなく、音楽だった。

傀儡謡

この記事は、是非サントラを聴きながら読んで欲しい。

特に凄いのは傀儡謡(くぐつうた)だ。

75人のお姉さんによるコーラスは圧巻。歌っているのは西田和枝社中という女性民謡グループだ。

まるで礼拝堂で宗教音楽を聴いているかのような心地よさ。

日本のテイストたっぷりだが、民謡ともまた違う。西洋音楽と折衷した、川井憲次独自の音楽と言えるだろう。

レコーディング風景

今でも川井憲次のサイトにレコーディングの様子が写っている。

傀儡謡はGHOST IN THE SHELLの主題歌、「謡」の流れを汲んでいる。

ハダリが組み上がっていくシーンは、GHOST IN THE SHELLの素子のセルフオマージュと考えていいだろう。「謡」が爽やかな美しさを持っている事に対し、「傀儡謡」は厳かだ。二つの作品の季節は真逆であり、コンピュータのUIカラーも対照的だ。GITSは夏なので緑、イノセンスは冬なので橙である。

鈴の音が静かに響き、打楽器は次第に荒ぶり始める。傀儡がテーマであるにも関わらず、生命が躍動する。そのあたりで私は、全身の毛が逆立つのである。

川井憲次自らが長バチを取り、長胴太鼓を叩いている。長バチは歌舞伎の下座音楽で、主に嵐や雷など自然の効果音を表現するために使われる。バチ全体を使って太鼓を面で叩くのが特徴だ。

明らかに大衆受けを狙っていない映像作品であるにも関わらず、ここまでやってしまう。それが押井守と川井憲次なのだろう。

YouTubeのコメント欄を見てみると、海外からの評価がとても高い事が分かる。しかし歌詞の内容は、彼らが思っているよりもずっと重苦しいものだ。怨恨みて散る、何て凄いタイトルだろう。

劇中では、OP、お祭り、クライマックスでそれぞれ別バージョンが流れる。

傀儡謡_怨恨みて散る(うらみてちる)

OPで流れるのはこのバージョン。作品の、ハダリのプロモーションと言えるだろう。GHOST IN THE SHELLでは素子が組み上がっていくときに「謡」が流れた。

傀儡謡_新世にて神集ひて(あらたよにかむつどひて)

途中のお祭りのシーンにて。このシーンは映像も素晴らしく、アジアの雰囲気でありながらも無国籍風だ。何よりも、お面の不気味さが際立つ。お祭りの面や人形は、何故あんなにも怖く感じるのだろう。囃子に共鳴する犬がかわいい。

傀儡謡_陽炎は黄泉に待たむと(かぎろひはよみにまたむと)

クライマックスの戦闘シーンは、ハダリが集団で襲ってきたら怖いよねという妄想が現実のものとなってしまう。戦闘曲に民謡風の音楽が流れるというのが斬新だし、激しいドラミングはバトーの突入、銃撃戦、素子との邂逅に緊張感を与えている。実際、シャカシャカ動くハダリは怖い。もちろんそれはハダリの意思などではなくウイルスのせいなのだから、やはりハダリは一方的に利用される可哀想な存在であると言える。

Follow Me

エンディング曲のFollw Meは、アランフェス協奏曲 第二楽章のカヴァーだ。原曲はギターをメインとした哀愁に溢れた曲で、恋のアランフェス、我が心のアランフェス等の別名でも親しまれる。

私の実家にはたまたまポール・モーリアのアレンジ盤があったので、原曲自体は幼少期からよく知っていた。

それを大胆に伊藤君子のオンボーカルとしたのがFollow Me。トレイラーで使用されたのもこの曲だ。中三だった私はテレビCMで聴いて感銘を受けた。思えば私は、最初からイノセンスの音楽の虜だったのである。

人形の怖さ

言うまでもなく、本作のキーとなるのは人形だ。ハダリは人間から見て、理想的な美しさで造られている。

人を模して造られ、嬲られ、棄てられ、焚かれる。が、人形が人を怨恨み、襲い掛かるという話ではない。そのように演出しているだけで、これはサイバーパンクな世界観のサイエンスフィクションである。人形の呪いみたいなものは人が勝手にそう解釈しているだけで、人形は最初から泣きも笑いもしない。

一連の事件は全て企業やハッカーが仕組んだ事であり、結局は人の仕業だ。

人形を怖く演出しているのはわざとで、人形が意志をもって動き出したかのような恐怖を煽っているに過ぎない。ハダリは美しいが、怖い。

人形の哀しさ

バトーに言わせれば、この事件の被害者は殺された人間ではない。殺しをさせれた人形なのだという。人間の勝手で魂を吹き込まれ、殺しをさせられ、挙句に自壊する。

殺された人間よりも、殺しをさせられた人形を憐れむ。それはバトーがサイボーグだからか。それとも、より慈悲深い人間だからか。

そう遠く無い未来、人間と機械の境界は限りなく曖昧だ。

GITSにて素子は、「自分が自分でない気がする」という漠然とした不安を抱えている。それは体の殆どが義体で、残されているのは僅かな脳だけだからだ。だからこそAIと融合し、肉体を捨てるという選択をしたわけだが―――。念の為付け加えておくと、元子は単に肉体を捨てたわけではない。AIとの融合を果たすことで、より上位の存在へとなったのである。それは神にも等しい存在だが、「守護天使」を自称している。

今作のバトーも同じような不安を抱えている。バトーは元々寡黙な巨漢だが、無口という程ではない。しかしイノセンスにおいては素子にフラレた悲しみと孤独もあり、すごーく暗いのである。

素子はそんなバトーを見かねて降りてきたのだろう。素子は居ないが、居る。実体が無いというだけなのである。「私はいつでもあなたの側に居る。」バトーの孤独が消えたわけではないが、多少は持ち直した。言葉こそ少ないが、二人の間にはそれで十分だったのだ。

イノセンスを理解し、面白いと感じるまで

この作品は難解であり、万人受けするようなものではない。非常に高尚なのである。だから理解が難しいし、私も面白いと感じるまでに時間を要した。

いつ面白くなったのかというと、視聴してから18年後。字幕付きで改めて視聴した時である。

キャラクターたちは物静かに喋る上に、セリフの殆どが難解な引用。これを初見で理解しろというのが無理である。ちなみにGHOST IN THE SHELLの予備知識が必須かというとそうでもない。続きものとしてでなく、単体で面白い作品だからだ。

だからこれからイノセンスを観る方は、是非とも2回観る覚悟で、日本語字幕で観て欲しいと思う。

高尚、故に難解。イノセンスが私の心に突き刺さり、浸透するまで18年かかった。ひどい時間差である。

唐突に、俗世に迎合しない押井守を尊敬した。

私は分かりやすすぎるものを好まないし、ややマイナーで難解な物にこそ本質的な価値が潜んでいると考えている。そういう目線から見ても、押井守監督作品は難しすぎるが・・・。

歌にしろ、「僕は君が好きだよ、君に会えて良かったよ」みたいなものは嫌いだ。表現というのはそれをどうこねくり回すかだし、そこに感情の機微があるからだ。

作品の世間的な評価はともかく、押井守は遠回しの達人である。

東京オリンピックについて

世界から求められているような日本のサイバーかつオリエンタルなエッセンスは、GHOST IN THE SHELLやイノセンスの世界観に凝縮されていると思う。

実際、攻殻機動隊の楽曲使用や、監督に押井守を起用して欲しいという声はあった。そこには至らなかったが、柔道の試合で傀儡謡は流れたらしい。つまり潜在的な需要はあったし、それに多少は応える形で供給はされたというわけだ。しかし求めていたものは、そうじゃない。

東京オリンピックについて言いたいことは死ぬほどあるが、もう終わったことなので仕方がない。しかしあんなに意味不明で纏まりの無いものを見せつけられるとは思っていなかった。

何故ああなってしまったのか。おそらくはカネや権利や政治性で、当初の案を電通がひっくり返してしまったのである。となると、協賛は離れていく。そして繰り返す辞任と解任。その末に短期間で協賛を集めて、何とか間に合わせた結果があれだったのだろう。事実、当初案には任天堂や大友克洋の作品が使われていたそうではないか。世界中がそれを待望していたはずだ。しかし当初案は反故にされた。その時点で、成功はあり得なかったのである。

コロナ禍ということもあり、資金繰り、協賛企業集め、国民の理解など、問題が山積みだったのは分かる。半ば強行開催だったわけだし。しかしやるならやるで最高のものを追求するべきだし、難しいのであれば再延期や中止も視野に入れるべきであった。

電通が何を思って当初案を否決したのかは分からないが、ゲームやアニメの持つエネルギーや政治性を理解していなかった事は確かだ。残念ながら今の日本には、昔ほどの体力は残っていない。しかしゲームとアニメはまだまだ戦えるコンテンツだ。皆内心それを分かっているのに、電通や政治家のお偉いさんにはそれが見えていないのである。押井守の言う通り、日本はとても悪い方向に変化してしまった。ハダリのように、日本は誰かから自壊させられているのだ。

グダグダとなってしまった東京オリンピック開会式。皮肉にも、それこそが日本の凋落を体現しているようだった。

あんなものよりも傀儡謡を歌う75人のお姉さん達の方が、世界に誇れる日本の姿なのである。

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