
恥ずかしながら私、北野武監督作品をほとんど観たことがない。いや、アウトレイジや龍三と七人の子分たちは観たから、全くのゼロとは言えない。しかしマスターピースと名高い『ソナチネ』を観ていないことに、どこか引け目を感じていたのだ。というわけで、観た。
はっきり言ってこの映画には、深いストーリーとか、得るべき教訓は無いのかもしれない。しかし私はこれを、こう捉えた。
「生きることも死ぬことも同義であり、その無常を描いている。」
生と死の境界なんて、曖昧だ。村川はもうヤクザを辞めたくなっていて、何なら人間さえも辞めたくなっている。だから今にも死んでしまいそうな、張り詰めた空気のなか物語は進む。
村川の生きる世界は、非情だ。応援に行けと言われて、行った。にも関わらず、「そんなに大した事じゃない」なんて言われてしまう始末。その言葉とは裏腹に、抗争は激化していた。仕方がないので、一同は隠れ家ヘ避難する。そこで暇つぶしをして過ごすことになる。
これがもう、たまらない。あまりにも無為で、無邪気で、無垢な時間だ。それ自体が、死後の世界であるかのように。少年時代の夏休みに戻ったかのような屈託のない笑顔で遊ぶ一同だが、着実に終わりへの静寂へ向かっている。
北野武は、この何も起きない時間を恐れずに撮る。そこにこそ、暴力の意味が剥ぎ取られたあとの死生観が浮かび上がる。沖縄の青い海も白い砂も、すでにこの世の色ではない。村川にとっては、そこが冥界でもあり、生と死の中間地点なのかもしれない。彼が笑えば笑うほど、その眼差しはどこか遠い。
そして最後、彼は静かに死を選ぶ。それは絶望ではなく、静寂への回帰だ。村川は生きることに倦み、死に対する感情そのものが摩耗している。だから迷わない。そういう男が辿り着いた、いわば流れの終着点ともいえる境地である。
この映画は興行的には失敗している。それこそがこの作品の芸術性を証明している気がしてならない。
単なる娯楽作品でなく、観客に「生とは何か」を問い返すための映画。だから売れないし、美しくもある。この沈黙の映画は、商業の枠では測れない永遠の余韻を残した。
最終的に私が得た結論は、こうだ。
生も死も、どちらも流れの一部に過ぎない。人は抗うことなく、その流れの中で静かに消えていく。そこに恐怖も悲劇もなく、ただ無常の美がある。



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